September 27, 2006

誇らしげなコルニチョーネ

本格的にピッツァを提供するようになって6年、その都度何かしら意識しつつピッツァを作っています。最近の課題は焼き時間、ある一定の焼き加減を得るということでそれはどのくらいの温度で焼くのかということと同じ意味でもあります。
おいしいナポリピザの条件の一つとして生地の焼け具合が重要なことです、特に表面のパリッとした感じと内側のもっちりと水分を充分に含んだ食感、この内と外のメリハリが大切な要素でしょう。このメリハリを出すために生地の質もさることながら焼成の温度が重要な要素になってきます。私がベストと感じるのは焼き時間で55秒から1分といったところでしょうか、1分を30秒も過ぎるとあまりいい状態とは言えません。温度にして炉床で380℃上は私の持っている温度計ではぎりぎり振り切ってしまい正確にはわかりませんが500℃から520℃くらいです。
この温度で焼けるとまた一つ次元が変わったように感じられます。
温度が低いと極端にはクッキーなどのようにさっくりと全体が均一に焼けます。
逆に高温になるほど内側の水分が保たれたままの状態で外はパリッと焼くことができます。パンなどを焼いた事がある方はそんな短時間では中は焼けないのではないかと疑問に思うのではないでしょうか?しかし500℃という温度下では瞬時に表面に膜ができてその一枚内側は高温の蒸気で満たされるわけです。短時間で充分に糊化が進みます。その適度な時間が1分間というわけです。
このちょっとした進歩が堪りません一歩一歩自分達の作るものが成熟していって、様々な良さを身にまとい格調を持つ、食べた人の笑顔がそれを教えてくれます。物を作る仕事のこれが醍醐味でしょう。
うちはガス窯でやっていますからこの温度調整は比較的楽なのですが、薪窯で同じように温度を調整するのはきっと大変なことでしょう。生地の準備やフィリングの用意、それをしながら窯の火もコントロールしなければいけないわけです。相当の熟練が必要です。薪をくべるペースで温度調整するそうですが高温を維持する際には炉床を何らかの方法で冷やすことをしないと裏を焦がしてしまうとか、ということは状況によってお店にもよるでしょうが薪窯を使う店ではある程度妥協した比較的低温で焼いている?こともあるかもしれません、ピッツァを食べ歩きしていた時期があったのですが思い起こすと生地自体がある程度のレベルに達していたのは一握りの店でした。当時はその違いがどのようなことなのか判断がつかずにいたのですが、それはつまり純粋に職人の技量の差だったのかもしれません。
薪窯はどうなのかなぁと思うのですがこれは経営者のかたの考え方次第です。
よく薪の香りということが言われますが、ぜひそれも食べ比べてみてほしいものです。
煙で付く香りと素材自体が適度に焼き上げて得られた香りとどちらが実際に良いものか、つまりスモークすることによっても良い風味は得られるわけですが、それは食材自体が適度に焼き上げられたときの風味を超えるものなのかどうか。私の感覚では小麦粉が程よく焼けたときの甘い繊細な香りを消してしまうという印象です。うちのピッツァは食べ歩く人に食べさせるとたまに甘い香りがすると言われます。しかしそれは小麦粉が持っている本来の香りでしかないわけです。ちょっとした工夫で道具は何倍にもその良さを発揮するものです。そのせいかラ・フレッチャのクアトロフォルマッジョはハチミツと合わせて特別に良さが生きるようです。
ちなみに何かをスモークする際にはチップに砂糖を合わせて使いバランスを取らないと適度な風味にはなりません、それがピザの薪窯はそのようなことはしませんから与えるスモークとしてはそれほどレベルは高くない?のかもしれません、しかし好みにもよることですからそれは一概には言えません。
薪窯でなくてもうまく使えば安定していい状態を保てる上に作り手に新たな発想をする余裕を与えてくれます。私達が守るべき伝統はやり方とか設備でなく出来上がる物の質だと思うのですがどうなのでしょう。
私もイタリアに店を作っていたらきっと薪窯を使っていたと思いますが、日本ではそれはとても高価なものです。さて日本でピザ窯職人が活躍するのはいつの日か!
興味のある方には是非やってみてほしいものです。きっと人気が出ると思います。
正直ちまたのピッツァ専門店ではその内容にあまり進歩がないものだなぁと最近思うようになりましたが、これも技術的な事情を考えると新しいものを作ることがおざなりになるのも仕方ないことなのでしょう。
ちなみに当店のピッツァイオーロは入店2年目の若手の調理スタッフです。
今では1分を何秒過ぎてしまったと嘆く、私よりマニアックな取り組み方で頼もしい限りです。
今回の季節メニューでは美食家風と題してちょっと変わったピッツァをオンリストしました。
やっと安全が確認されて再開された(牛ではありません、ご安心を)フランス産のうずらをメインにトリュフとフォアグラを取り合わせたピッツァです。
うずらはほぐして乗せますから骨離れのいいようにコンフィにして直前に軽くあぶり焼きをします。ブッファラを置いたうえにこのうずらを散らしてその上に薄切りにしたフォアグラ正確には鴨なのでフォアドカナール、オアより私が好んで使うこのフォアドカナールは高温のあぶり焼きに向いていて焼き上がりの香りは素晴らしいものです。しかし大変もったいないことに敢えてここにトリュフを散らすことにします。あとは食べていただくしかありません、さてそのハーモニーは?
料金は2000円内容からすると頑張った値段なのですが私の感覚ではピッツァとしては高い、同じものがイタリアで売られていたらいくら?という感覚が私にはあってとてもピッツァを高価な食物にすることはしたくないわけです。
さぁラ・フレッチャ秋のメニューをご賞味ください!
Buon appetito !!



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September 23, 2006

薄さの加減

関西の料理で椀物、先日テレビで見たのはハモが骨切りされふっくらと中央にあって澄んだ出汁がはってある、その出汁は大量の昆布と鰹節が使われた相当に旨みの強いものです、その旨みを最大限引き出すならかなりの量の塩を加えなければいけません、必要なだけ入れてしまえば確かに印象の強いものではありますが、疲れる、食べ進めるうちに味覚が疲れ辛い味の料理になってしまいます、そうせず敢えて余分な旨みを残してその甘みを楽しませる料理にしています。私は関西人ではないので想像ですがこういう味をまったりと言うのではないでしょうか。その塩加減は料理を食べ終わったとき、お椀の汁を飲み干したときに丁度良くなるようなところに基準をおいて付けるものなのではないかと想像していますが今度機会があったら訊いてみることにしましょう。
こういったことは食べる方に狙った通りの満足を与えようという洗練された技、日本の誇るべき食における一つの技術と思います。さて、そうでなく習慣的に何でも薄味にしてしまうということはどうなのでしょう、病気の治療であれば仕方ありませんが、旨みを楽しみたい料理に必要な量の塩を加えなければ、それはただのパンチに欠けた料理です。どの旨みをどのくらいまで引き出すかは料理人のセンスが試されるところでしょう。先の椀物テレビ番組の中で味をみた出演者が上品なと表現していましたが、作り手は上品に抑えられた部分でなく塩を抑えたことによって引き出された甘みを理解してコメントして欲しかったのではないかと私は直感していましたがどうなのでしょう。

老舗のちゃんこ屋さんで一度忘年会を開いたことがあります。格式あるお店のようで給仕してくれた男性の店員さんも慇懃な融通の利かなそうな物腰です。さてちゃんこ鍋が中心のコースです、前菜、お刺身冷菜の類いは問題なくいただきましたが肝心のちゃんこ鍋の味付けが薄い、鍋からあげた具材をそのまま食べる食べ方で手元に味を調整できるものは何もありません、練り物の類いは元々塩気がありますから良いのですが野菜やそのままの肉もやはり同じように食べなければいけません。それらを同じ扱いにするというのはそもそも乱暴な料理です。味を濃くして欲しい旨を店員さんに伝えると冷たく返されたお話は「後々煮詰まると味が濃くなり過ぎ最後の雑炊がくどくなるから、そのまま食べてください」驚きました、その店ではお客さんが食べている鍋で後の料理のための出汁をとってその出し殻をそのまま客に食べさせているわけなんです。店員さんの話通りに受け取るとそういうことです。皿に取り上げた具の加減を調整する手立てはいくらでもあるはずです、当店ではこのぐらいの濃さでという答えなのかと想像していましたが違いました。このようなことは論外ですがそもそも塩を控えて出汁の甘みまろやかさを楽しませることと、ただ薄く味を付けることとは素材やその料理によって明らかに違うことです、その手法食材は多岐に渡りとても一括りにはできないことですが、その料理人が伝えたいまったりした味まろやかさを想像しつつ注意して味わうとその差は明らかでそこを履き違えるとそのちゃんこ屋さんのようにお客さん不在の大変お粗末なことになってしまいます。
ちなみに薄い味で我慢してとった出汁で作った雑炊はこれもやはりぼやけた薄味でした、刺身用に出されていた醤油を少量ふって食べてみるとなかなか良い素材を使っているようでおいしくいただけました。そもそもうどんなどは麺自体に味を持たせてあるもので極端な話麺だけでもおいしく食べることができます。しかしご飯は確かに農家の方が自分達で食べるための取っておきのものなど分けていただくと本当にそのままでおいしいものですが一般的には塩もしくは塩分のある惣菜と合わせるのが必要なもので、そもそも料理、勧めてもらったコース自体が料理として成り立っていないわけです。ご飯の食べ方も極めていない出汁の使いかたも理解していない。

お客さんの感じたことに無関心なのは伝統料理から離れた形骸なのではないかと思います、お客さんの長い間の支持があるから伝統であるわけでそれは自明の理としか言い様がありません。
京都の薄味、野菜が豊富に採れる京都ならではで、その野菜をまとめて煮炊きして数日に渡って温め直していただくと云う食習慣がそもそもあり温め直して食べるものに濃い味を付けてしまうと後々濃くなり過ぎ食べ辛くなってしまう、最初薄く味を控えて調理する、食べる際それぞれ好みで味を足して食べるということもされていたようです。これが京都の薄味のルーツであるようです。公家、労働しない貴族が上品な薄味を好んだからということも要素としてあげられることですがこれは眉唾で、わずか一握りの人達の嗜好、要素の一つが伝統文化そのものに影響したとは考え難いと思います。
味そのものに影響したと言うよりも受け取る側の意識の問題で、薄味=上品という与えられた先入観念から個人の好み、個人差ということを考慮網羅して味付けすることは意識されなくなったのではないかと思います。好みの加減ということは当たり前に認識されていたわけなので、それが受け取る側の認識不足なのか、おそらく京都から離れて他の地で商売として運営されるようになってのち、その食文化の中身が取り残され場面場面で加減して味を表現する繊細な技術は忘れられ薄味という裸の王様が一人歩きする状況?そう私は思います。

敢えて薄味に仕上げて余分な旨み、甘みを楽しむ
これはイタリア料理にはない概念です、しかしながら私が思うに体系的に考えて同じように扱われているのがオリーブオイルの使われ方ではないかと思っています、当て付けのようですがまったりと言う表現が似合いそうな風味ではあります、他の植物性の油脂と比べて唯一種でなく実から絞られるそのオイルは明らかに加熱も比較的低温でしてほしい風味が大切な調味料です。
パスタのソースにも色々なタイプがありますがオイルの風味を重視したいものは特に慎重に塩加減をする必要があります、他のソース例えばクリーム系のソースは加減を付けられる範囲が狭くタイトなのですが逆にそこしかないので旨みに注意しつつ付けていけば間違うことはありません。しかしオイル系ソースの場合旨みを頼りに塩を足していくと入れ過ぎてしまいがちです。オイルの風味が強調される邪魔しない程度の塩加減が適当です、入れ過ぎないことでオイルの甘みを強調するということです。
修行時代最初に立ちはだかった壁はこのオリーブオイルの使い方でした。油は食味としては重いものでできれば少なく抑えたいという考え方がイタリア料理以外の料理体系に共通してあるものと思います。しかしイタリアではそれは明かに植物の絞り汁で調味料として捉えられていて調理の仕上げに当然加え調整されるものなんです。
あービックリ先輩が仕上げにドボドボは言い過ぎですがかなりの量のオリーブ油を入れているのを見てとても自分にはできないのではと心配しましたが、理解すればそれはそれほど不自然なことではなく、調味料の一つとして欠かせないものと理解することができます。特に様々な酸味を駆使するイタリア料理ではそれはバランスを取るための素材として欠かせないものです。
イタリア料理の体系的な流れを見ると古くはアグロドルチェ=甘酸っぱい味付けが多様されていたところに、おそらくはトマトの導入が転機となってオリーブ油と酸味のバランスが重視される、体系的に一段確かなレベルに至ったステップアップを見ることができます。現在三大料理というとトルコ料理、フレンチ、チャイニーズだそうなのですが、イタリア料理の文化的な確かさはぜひモデルにしたいところです。





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September 16, 2006

理想のレストラン

私が理想としているのは「半農」です。野菜を育てながらその野菜をふんだんに使った料理を提供する、これほどオリジナリティが高く、信頼のおけるやり方はないのではないかと考えています。
このやり方を実践しているあるシェフの方がいます。ある程度実績を積まれて都会から田舎へ移り住み、その地にレストランを開いたそうです。本でその様子を知ることができます。正しく私が理想としている様々なことがその本の中にあります。しかしただ一点残念なことにその方農薬を必要悪としてできるだけ少なくという前提はあるものの使うこととしています。

本当にそれは必要な物なのか?土中の微生物の文字通り有機的なバランスを考えたときその農薬ははたして実効のあるものなのか?
除草剤をまけば雑草を抜く手間から開放されます。浸透性の高い農薬を野菜に噴霧するとかなり長い期間病気害虫から作物を守ることができます。
それをしなければ大変なことと思います。雑草を抜き管理できる広さには限度があるし、虫に喰われた野菜は店頭に並べても買う人は少ないでしょう。

本当にスーパーの野菜売り場はおいしそうな野菜で満たされています。虫喰い痕など全くなく鮮度は高そうで形大きさは規格通りといった様子です。
残念ながらこれは実は不自然な光景です。腐り難い果物、季節外れの野菜、虫喰い痕のない野菜、これは言い換えると虫の近寄れない野菜、虫が食べられない野菜です。農薬の最大の特徴は選択的に害を及ぼすことです。植物に害を与えずに病気を起こす菌や、葉を食べてしまう虫、そして人間にも害を及ぼします。

全く馬鹿な笑い話にしか聞こえないのですが、安価で実効性が高くよく使われているある農薬は戦時中ドイツが開発した毒ガスだそうです。嘘みたいな話ですがこれは事実のようです。神経を冒すその毒は人の体内に入ると人間に必要なある酵素と強く結びついて急性中毒を起こします、長期的には蓄積されて肝臓障害、神経障害など慢性中毒を起こし、毒性が強く実に様々な症状を起こすことが研究により解明されつつあります。野菜から摂取した消費者は長い蓄積の期間を経て様々な障害を被る可能性があります。

農薬の問題は色々な段階で分けて考えなければ分かりにくいものです。
直接的な急性中毒のような害もあれば、すぐには因果関係を特定できないことも多くあります、薬物過敏症を引き起こすのもこの有機リン系の農薬と言われています。
現実的に農薬による最も深刻な被害を受けるのは使用する生産者とその地域の方です。薬物過敏症の発生する確率は農村部に圧倒的に多いことはすでに知られていますし、そのような農村地域では自殺率の高いことも取り沙汰されています。神経系の疾患が自殺を誘発している可能性も考えられます。

行政が動きだすのはよほど状況が悪化した後です。
消費者が守られることはありませんBSEの件で調べるうちに様々なことで充分そのようなことを知り得ました。実質的に政府行政が利益を認め守るのは生産者や企業に対してで消費者ではありません、私達は自分達で考え守るしか方法はないわけです。

農薬は使い始めたシーズンが最も良い効果が出るそうです。しかし使い続ける内に土壌自体の質が落ちて行き、また病害虫にも耐性が出てきて同じ量では次第に効果が期待できなくなる、農薬は病害虫を近づけなくしますが同時に病害虫の天敵をも駆逐してしまいます。耐性を得た病害虫は逆に繁殖し易くなり、それを補い成り立たせるためには益々農薬を増やさざるを得ないわけです。同時に植物の生育に有用な土壌中の微生物も駆逐されてしまう。
植物の生育に良い土壌は生育に有用な微生物郡にバランスが傾いた土壌であるということが言えます。このバランスということは環境ということの繊細さを物語っています、一旦崩れてしまったら良好な状態を再現するには大変な労力資源が必要になります、そこを滞りなく保つようにするのが本来農業における文化伝統の機能なのでしょうがそれは近年日本では省みられることはありません、悩ましい問題です。

雑草を取り管理できる程度の広さを基本として考え直すことはできないのでしょうか?
意識の問題も関わっています。当たり前の野菜には虫食い痕があるものです。安全な野菜の目印、現代人の感覚はかなり現実からずれていると言わざるを得ないでしょう。私達が目にしているのは技術革新ばかりではなく、その虚為上辺だけの作り物であるかもしれません。見た目清潔で質は良さそうなのですが、その実その中には有害で食べ続けられないもの、食べ続けると障害をもたらすかもしれないものが含まれています。流通の仕組み、経済原理の中で生み出された人に害をなす物。
専業の農家の方には農薬を使用しない方法を取るのは大変なことと思います。まず農薬漬けになった土を再生するのは難しいことでしょうし、雑草を手で摘むには現実的には規模を考え直すことが必要になるでしょう、新たな方法で野菜を育てなければいけない技術的な問題もあります。もし有機堆肥でそれを行うならそのルートの確保も必要です。さらには運良く野菜が収穫できてもそれを理解し買ってくれる消費者が必要です。ただ市場に出しても果たしてその価値が認めてもらえるものか難しい問題です。

しかしレストランではそのいくつかの問題を簡単にクリアすることができます。レストランではもともと生ゴミが日常的に出るわけです。これをもとに充分な堆肥を確保することができます。野菜を選び提供するのは私達自身ですから市場まかせで価値を認めてもらえないこともないわけです。
生産して直接消費者に提供するとても責任の重いことですが、同時に流通を経ることなく完結する実際に行われている農業のモデルとなることでもあるので是非よく考えてほしい。完全無農薬で成り立たせる努力をしている農家が実際にあります。その昔農薬など存在しない時代にも野菜は人を支え貢献し生活を成り立たせていたわけです。なぜそれができないと言えるでしょう。シンプルに人間が生活するということを考えるなら産業として成り立つことは二の次、生活の糧として成り立つものが人間を生かすものと思います。私達がしていることは産業だけでなく、同じ程度に文化を構成しているものです。是非考えて欲しいそれがモデルになり得るわけです。
この農薬の問題はBSEなどと比べるとまだ猶予があります。よく考えていただいて、それをできる人に導いてほしいと願います。それができるなら情報の提供を惜しむことはありません。是非アクセスを!



02:04:43 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

September 14, 2006

BSE



私やラ・フレッチャに関心を持ってくださる方に今特にお話ししたいのはBSEに関することです。

私なりにこの数週間調べ考えてみました。情報はWeb上の記述と本によるものです。報道機関ではこのところこの問題を取り上げているのをほとんど見ることが出来ません。新聞でいくつか短い記事を目にしただけでテレビではまるで問題は無かったかのように取り上げられなくなってしまいました。実際に自己責任で選択しなければいけないこの情報のほしいタイミングに報道がされていないというのは残念なことです。
EUはアメリカの牛肉を輸入していません、韓国でも輸入禁止の継続を決めました。しかし日本ではあとは自己責任でと輸入再開を決めてしまいました。
これはどういうことなのでしょうか、私のような料理人にとっては家族やお客さん従業員の方、一般家庭の主婦の方は子供や夫の健康を自分達の責任で考え守らなければいけないということです。健康を守ると書きましたがより正確にはそれは健康でなく命です。大袈裟ではなく、治療法、薬などは未だ開発されていない病気です、発症したら100%死に至ります。未だに感染のメカニズムも解明されていないし、異常プリオンタンパク質が原因と言われますが実はそれも実証されていません。
プリオン説でノーベル賞を受賞したプルシナーの研究成果にはなお多くの疑問点が指摘されています。
このような未知の脅威に私達は晒されています。
私達には優秀な科学者を雇うことはできませんし莫大な資金をかけた研究所を作ることもできません。
できるのは買わないこと食べないことだけです。

さてBSEとは何なのでしょう?

調べていて意外に感じたことは色々な発症例のあるそれぞれ種族差、地域差、発症の質自体の差も関わりなくそれが本質的に同じものだということです。
アメリカで狂牛病由来の変異型クロイツフェルトヤコブ病の発生が疑われ検証された際、アメリカ政府の見解それは変異型でなく孤発性のヤコブ病なので我国には未だBSE由来の変異型ヤコブ病の発生は認められないというものでした。でもその両者には本質的な差はありません。症状や発症する年齢などに若干の差はあっても孤発性のヤコブ病も伝染性を有していますし。色々な動物の伝達性スポンジ状脳症の脳をすりつぶして注射しマウスに感染させることは研究の場面で日常的に行われていることです。(弧発性のヤコブ病もこのような方法でマウスに感染させることができるそうです。)この病気にとって種の壁は低いということは明らかな事実です。
現在非常に確かなことにBSEがイギリスでアウトブレイクした最大の原因は肉骨粉を牛に与えたことです、レンダリングの方法(オイルショックの際変えられた過熱方法や石油由来の有機溶剤使用の有無)を変えなければあれほどの被害が出なかったのは確かでしょう、しかし肉骨粉が原因であることには間違いないわけです。理解に苦しむことに未だにアメリカでは肉骨粉を使用しています。鶏に肉骨粉を与えてその鶏の糞を飼料として牛に与えているそうです。
鶏の糞には相当の量の肉骨粉が未消化で残り含まれていて牛がそれを食べてしまうわけです、感染源の研究によって交差汚染ということが言われるほどこの病気の感染は多岐に可能性が考えられます。日本におけるBSEの感染は代用乳に含まれていた動物由来の油脂が原因として疑われているそうです。肉骨粉を締め出した状況でも実際に感染は発生するわけです。
アメリカではそれ以前の状況と言わざるを得ないでしょう。
このような例は論外として、現在のようにプリオン説でこの病気が解明されたかのような前提、感染しても発病していなければ安全、種の壁は越えてもたんぱく質であるが故安定的ということで方策を決めていると、それがもしプリオンでなく核酸を持つウィルスのようなものだった場合それが宿主に順応変化し新たな感染を生む可能性も捨てきれません。肉骨粉を与えていると云う事はその機会を病原体に与え続けているということではないでしょうか?
孤発性ヤコブ病は遺伝的な要因で発症すると考えられています。環境的な感染ということを経ず発症するということです。100万人に一人の割合で起きているそうです。
しかし清浄国と言われるオーストラリアニュージーランドの牛、羊にはその程度の感染さえ起きていません。果たして孤発性ヤコブ病は遺伝によるものなのでしょうか?それがもし感染原のない場所で遺伝的に発症するものだとしたら他の場所でも同じように発症するはずです。しかし清浄国の家畜にはそれが起きていません。弧発性ヤコブ病は感染によって起こるもので、遺伝的にヤコブ病に対して感受性の強い方が罹るれっきとしたBSE由来もしくは他の動物の伝達性スポンジ状脳症からのヤコブ病と考えるのがより自然なのではないでしょうか?伝達性スポンジ状脳症では異種族間での感染性が高いということが分かる前の研究において遺伝的とされていた病気なわけです。

このところのBSE研究によると中には特定危険部位という考え方そのものが否定され兼ねないものが含まれています。プリオン説はBSEで死んだ牛の特定危険部位と言われる部分に異常プリオンタンパク質が多く残されているという事実に基づいています。
感染源=異常プリオンタンパク質ということがプリオン説の骨子です。
牛がBSEに感染し死んだ段階で異常プリオンタンパク質が多く残されている部分
これだけが危険でこれさえ取り除けばあとの部位は安全という考え方
しかしその前段階があることが確認されています。
それはマウスによる実験で、伝達性スポンジ状脳症発症の過程に関する研究です、感染力の高さの推移と異常プリオンタンパク質の量の推移には対象としたいくつかの臓器によって少なからずズレが生じるということです。具体的には感染の過程の臨床的な事実を追うとまずリンパ系の臓器に症状が現れ神経系に及び最終的に脳に到達しているという感染の過程で。
つまり最終的に死に至る段階には特定危険部位に症状が顕著に現れ感染性が強く確認されるのですが、その前段階ではリンパ系の臓器唾液腺や脾臓での感染性がより強く、その段階その臓器では異常プリオンは少ないかもしくは認められない、ということが特定危険部位という考え方プリオン説そのものに反し確認され認められているということです。つまり症状を発するのは脳に異常プリオンタンパク質が溜まるということが起き始めてからですから、それ以前発症前の段階においてリンパ系の臓器の方がむしろ感染力を強く有している。こういう可能性は考えられないのでしょうか?私は科学者ではありません、余計な心配なのかもしれません、しかし素直に読んで既存の情報と合わせて考えるとそのような心象は当然得られるものと思います。

色々な対策の場面でBSEの発症とされているのは歩行困難などの症状を示す脳に障害の起きている最終段階のことでその前段階は含まれていません。月齢20歳以下ではBSEは発症しないという研究がありその考え方に基づいてアメリカは全頭検査を無意味として日本政府を説得してしまいました、そもそもこの論理自体が飛躍しています。伝染病の正体がつかめていない現段階で全頭検査は有効な手段です。さらに既に感染して発症していない牛も対象として捉えこれを実施するというのが当たり前の姿勢ではないでしょうか?それができないとか難しいということはあっても、全頭検査そのものが非科学的とするのはいったいどのような考え方なのでしょうか?実際双方の行政の間でそのようなやり取りがされたわけです。理解に苦しみます。

今回の輸入再開で特定危険部位を除いた肉の輸入が認められました。
それは感染している牛でも発症以前は完全に安全であるという考え方に基づいているわけですがそれは確実なのでしょうか?感染して発症する以前の牛のリンパ系臓器及び組織それが混入している食肉にもし感染の危険性があるとしたら今回の基準では甘過ぎるわけです。
発症以前のそれらの部位に感染性があるという研究はマウスのものです。牛には該当しないのかもしれません。
慎重に安全を確かめる姿勢がない以上、このような危険性も考慮されないのでしょう。
これほど未知な部分の多い研究途上である伝染病もプリオンという名を与えられ一気に理解が深まったかのようですが、もしその考え方の根本的な部分に間違いがあったとしたらどうでしょう、実際様々な部分でその可能性が見つけられているそうです。あまりにも時期尚早な認知で政府の対応もこのプリオン説を基に進められています。あくまで危険な可能性が捨てきれないのではないかという話ですがもうすでに私達は実際に選択する場面に立ってしまっています。

食べ物を提供する者としての責任を果たすなら、それがもし宝くじに当たるような確立であったとしても感染の可能性があるものは使うべきではないでしょう。
安全が確認できないものは現段階危険なものです。私は自分の倫理観に沿ってそういった危険な可能性のある食品の仕入れ購入を止める決断をしました。
しかしそれは実際にはかなり難しいことです、吉野家の牛丼を食べないことはとても簡単なことですが、日本では加工食品や外食産業において原材料の産地表示義務はありません。安ければ使うでしょう、企業というシステムに良心は期待できません。
危険なものでも法的に使用可能でそれを使うことによってより利益が上がる、そういう選択がされているのは日常よく見掛けることです。腐らない弁当があればカビない食パン、有機溶剤の注入された肉、市場に出てしまえば色々な場面で使われていくのは確実です。
責任を果たすなら可能性のある全てを排除しなければいけない局面に立たされているわけです。
残念ながらこの国の無責任な方策がこういう状況を生んでしまったわけです。
腹立たしい限りです、今まで使えていた食材が使えなくなってしまう。

過去できるだけBSEに関する情報には目を通してきたつもりですが最近読んだ「プリオン説は本当か」という本には今まで触れる事のなかった情報が多く含まれていました。
実際に現場で研究をしている人の視点で語られていて、リアリティを感じます。当然筆者の主張がありその部分は主観的に表現されていますがそれに至るまでの部分はただ淡々と憶測なく表現されていて読む側の想像を刺激します。

アメリカという資本主義、経済原則を基本とした社会において主要な食品の産業である畜産は大変なボリュームで国の根幹をなしています。それは私達の想像を超えるものでその絶対的な量、そのコストの低さ、従事する人の多さは動かしがたい重さを持っています。おそらくアメリカでは未だにBSEに対し実質的、効果的に取り組むことができていないのでしょう。
BSEの性質(潜伏期間の長さ、感染率の低さ、未知の病気であること)があるが故
アメリカ政府はその強引さでもって安全であると主張し内外にそれを強要しています。中国も輸入再開することを表明しましたし、9月中にはおそらく韓国もアメリカの圧力に屈して輸入再開を決めることになるでしょう。アメリカの産業のために他国の一般市民が犠牲になるかもしれない現実が目の前で進行中です。
BSE、変異型クロイツフェルトヤコブ病の恐さは一端発病してしまえば確実に死にいたるということです。感染率が非常に低い上、実証したり、感染源を特定することが困難ということで危険を無視してしまおうというやり方、憤りを感じます。
科学者でない私が言うのはおかしいかもしれませんが読んだものを総合して考えると、おそらく弧発性ヤコブ病は遺伝的に発症するのではなく遺伝的に感染しやすい人が病原体に触れ感染発症するものなのではないでしょうか?
過去あったそのような弧発性ヤコブ病とされた方も病原体をもらうことがなければ死なずに済んだのかもしれません
どのような遺伝を自分が持っているか大抵の人には分からないわけです。
変異型ヤコブ病にしても実際にBSEが蔓延したとして発病するのはおそらくはごく僅かな人達です。どこでそれが分けられるのか?食べた量によるものか、他の要素が影響するのか未だ研究の途上です。ある程度統計的なデータがまとめられても新しい事実が次々と紹介されるので判断に難しいところです。
それはどのような人たちにとって特に危険なのか?自分かもしれない、身近な人に起こるかもしれない、食べなければそれを防ぐことができるかもしれないわけです。しかし政府は外交的な事情でその脅威を日本の人達に一歩近づけてしまいました。
報道機関は不思議なほど何も表明しませんが、現在大切な局面と思います。
いい機会ですから危険と思われるものは全て排除して、気持ちを切り替えてやり直す心境でことに望みたいと思います。

BSEに関するお勧めサイト
狂牛病とプリオン/牛海綿状脳症(BSE)
http://www2d.biglobe.nejp/~chem_env/chem8/prion.html
BSE&食と感染症 つぶやきブログ
http://blog.goo.ne.jp/infectionkei2
国立感染症研究所
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g1/k02_24/k02_24.html
農業情報研究所
http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/index.html

プリオン説はほんとうか?著者: 福岡伸一
分子生物学者の方が書いた本です。こちらに詳しい記述があります。


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September 08, 2006

裸の王様

料理人にとっても塩加減というのはとても難しいものです。
ちょうどいい塩加減は人によってそれぞれ微妙に違うものです。全ての人がおいしいと感じる塩加減は限られた非常に狭い範囲にあります。特に夏場暑い季節は人によって食欲も落ち、代謝にも関係して個人差が出るものでおいしいと感じる加減にさらに大きく差が出てしまう場合があります。そうなるともう同じ加減で全ての方に満足してもらうのは不可能になってしまいます。

日本では主食のご飯に塩分を加えずその分塩加減の強い惣菜を取り合わせ適度な塩分になるよう調整して食べるという食習慣があります。
この習慣があることによっても嗜好の差で薄味が良かったり逆だったり個人差が出てどちらかに傾いてしまう可能性があると思います。
確かに塩分の強い食品も単体でなくご飯と食べたり酒の肴として食べるとおいしく感じられるものです。
一般的に薄味は上品という概念があるようですが、さてその薄味とはなんでしょう?色々な尺度があります、色の濃い薄い、旨みの強い弱い、塩加減が薄い濃い、一般的に関西の料理は色が薄いようです。よく出汁を効かせ醤油は薄口を使い澄んだ汁がいかにも上品に見えます。ただこれが様々な研究統計によって実際に取っている塩分の量は関東も関西も言われるほど大きな差はないという結果が出ているそうです、塩分の差と思われていたのが実は見た目の濃さや調味料、出汁の使い方の差だったわけです。
塩加減は調理し作りだした味が食べた人に好ましく伝わるかどうかという考え方をすると分かり易い、塩は過程において味を作ることにも関係していますが、最終段階で確実に調整しておかなければいけないものでもあるわけです。
食習慣や体調などで個々人固有の適当な塩分濃度は浸透圧が関与しているかのように感覚器官の感覚の領域で快、不快が分けられるものと私は理解しています。
調味料は閾値以下で使うもので塩に関しても同じ、閾値を越えた分、塩そのものの味が不快さの元になります。塩水は不味いですよね、何の旨みもない水なら閾値も0で塩分を加えずに飲むのがおいしい、閾値に達する前の塩はその食材の旨みを引き出すために使われる塩でこの旨みが強ければその分より多くの塩が必要になります。
ここで注意すべきことは旨みの特に強い食材の場合その全てを引き出す必要もないということでしょうか、これも個人差のあることですがその旨みの強さ自体に味覚が疲れてしまうということもあります。これは調理する側としては分かり辛くなりますから分けて考えた方がいいことです。ある程度の上限を設けてそこまでは旨みに合わせて塩をしてそれ以上は控えるというやり方です。その調理の場面、強調したい食材によってこの限りでない場合もあります。毎日注意して加減していればいずれこの感覚はついてきます。旨みと関係なく塩自体の量を感じられることと、旨みを引き出すだけの塩の量、旨みを最大限引き出す量、を捉えて自分のものにすることです。
地域差よりも個人差が調理人である私達にとっては深刻なことです。
埋めようのない差を補うにはどうするか、基本的に体調を保ち感覚を磨くことが作る側の努力として重要ですが、現実の場面であらかじめ食べる方の加減がわかっていればそのように作り、そうでない場合(全ての人にとって自分の感覚は「普通」です。お尋ねしても分らないのが普通です。)予想できる範囲でどちらかに合わせるしかなく、一度つけたものは減らすことはできませんから薄い加減に合わせるのが必然です、濃い加減の方には塩を用意して申し訳なくも自分で加減していただく。
これは必要なことと思います、中には「それは調理人として怠慢でありしっかり加減をしてだして当たり前塩など客席に用意してはいけない」という考え方をする料理人さんもいます。しかしその感覚自体が人によって違うわけですからそれがわからない以上できるだけ適度な加減をしてあとは塩を用意するしかないわけです。
現実には上級な店にいくほど塩は用意されていません、それならばお客さんの塩加減を知る努力があってしかるべきと思うのですが、そういう話は特に洋食の上級の店ではあまりされているのは見掛けません。和食の職人さんはお客さんの飲み物の飲み方を観察したり、外見や人となりから察して微妙に塩加減を変えるそうです。
洋食で聞くのは逆に、お客さんから塩辛いと言われたシェフが言うに事欠いて飲みものを飲む前提で作った料理だからワインを飲みつつ食べて丁度いいもの、飲み物を飲まずに食べれば塩辛くて当たり前とお客さんに言ったとか言わないとか。何と傲慢で愚かな自慢話でしょう。私が保証します。本当にあったことと仮定して、まずお客さんがワインを飲んでいないのは料理を出す前にわかるはずです、それでもワインを飲まないとちょうど良く味わえない料理を作る、お客さんから満足できないと指摘されてもワインを飲むのが当たり前と非を認めない、この方二重三重に間違っていると私は思うのですが、接客の方とコミュニケーションがとれていないのも露呈しています、高いお店ならばそれくらいは洗練されていてほしいものです。

私が他店で食事をしていて感じるのは、たまに残念なことにそれ以前のレベルで、適度に塩味をつける努力がまず感じられない。苦情の出ない味付けということがあります。人は自分がちょうどいいと感じる加減より少しでも強く塩が効いていると不快に感じるものです。逆に大分感覚より下回っていても何かパンチがないなくらいでたいていは苦情を言うことはしません。
有名店だったりするとなおさらですね。こういうものかと諦めてしまい、おいしいと感じられないことを逆に残念に思う、まさかそんな有名店でいい加減な調理がされているとは誰も思わないでしょうから。
その怠慢が上品なとか優しいと評価されていると作り手さんはそのまま自らも納得しないような味付けを続ける、童話の裸の王様を地でいっています。
塩加減はとても大切な要素だと思います。どんなに素晴らしい旨みがあっても塩がないと本当にはその良さはわかりません、旨みを引き出すのは塩と言って過言ではないでしょう。旨みの弱いミネストローネなどの塩加減をしているとそれがよくわかります。徐々に足していくともやもやと分かり難かったものが突如すっきりと隅々まで鮮明に理解することができるようになります、一人前で0,7gくらいでしょうか0.1g以下の量が明暗を分けます。
先日私は都内のある有名店で食事をしたのですが正直残念なものでした、本当に誰もが知る有名な店でそのシェフの堅実で良心的なイメージは私には知らずとも信頼の置けると言えるようなものがあったのですが、残念なことに、実際にはあまり細部まで検討されていない、店舗としてなのかもしれません、私には残念な内容でした。塩加減を明かに低めに設定していながら塩が客席に用意されていないことも残念なことですがとても不思議だったのはチーズの料理、前菜でしたがそれと魚介のこれも前菜で、これらに使われているソースが同じものでした。おそらく玉葱がベースでオイルとヴィネガーを乳化させたよくありそうなソースです。ある程度の値段をとる食を楽しむ雰囲気を持たせた店としてこれは残念なことです。どちらの料理にも色々なソースのバリエーションが可能と思います、同じテーブルに出る違う料理に同じソースを使うということはそのソースを過信しているのかお客さんを馬鹿にしていると思われても仕方ないと思います。その店舗はその方は名前を貸しただけなのかもしれません。事情のあることかもしれませんが、それを実際客として体験してある程度の判断のできる者として残念に思いました。
前から私が感じていたことは益々現実味を帯びて感じられるようになってきました。
洋食、専門料理の作り手さん達はお客さんを軽く見る傾向があると私は思います。
海外での修行時代、劣等感を感じていたのでしょうか、それがいつの間にかお客さんに向けらているのか?私には理解できません、残念なことです。


01:16:41 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks