December 11, 2006

レストラン=人が自らを修復する場所

12月は完全に忙殺されてしまいます。自分の時間を持てない日々が続いたもののやっと少し余裕ができました。本当に有り難いことです。今のように自分の仕事に専念できる環境があるのは協力してくださる方がいるからです。ラ・フレッチャを立ち上げたことに間違いはなかったと満足し感謝しています。

日本では本当の意味でのレストランは少ないというお話を。
まずレストランという言葉の意味を、この単語各国で使用されていますが元はフランス語で「修復」を意味する単語から派生した飲食店を指す名称です、修復する場所、おいしいものを食べて楽しい時を過ごすことで心身を共にリフレッシュさせる、人を修復させる場所という意味だそうです。
日本では西洋料理を食べさせる飲食店のことを総じてレストランと呼んでいますが意味合いまで考えると該当する店は意外に少ないのかもしれません。
ファーストフード、ファミリーレストラン、レストランチェーン、なるべく同じものをたくさん作れば材料費や経費を抑え安く売ることが出来ます。セントラルキッチンでまとめて作り配って店舗では温めるだけ、ある地域に成り立ったレストランがあるとしてそれを他の地にそのままコピー移植していけば随分経費は抑えられるでしょう。結果単価は安く収益率の高い競争力のある店舗が作られていきます。
作る側の合理性を追求した形態。色々問題は指摘されるところですが、そういった飲食店のことを否定しようとも思いません。しかし明らかなことには違う価値を求めている方も多くいるということです。地域性もあれば、その土地の食材、習慣、要素は様々です。それにも拘わらず本来あるべきそういった地元に根付いた個人が経営する個性的な飲食店はすでに駆逐されて久しい観があります。気が付いたときにはもう無くなってしまっているわけです。
現代人のかなり多くの人の価値基準はコンビニでありファーストフード、ファミリーレストランなわけです。そういう店舗と比較すると当然個人で経営する店は値段が高い、さらに収益率も悪いわけです。仕入れの量が大きく変われば仕入れ単価にも差が出るでしょうし、仕込む際の経費にも差が出来ます。
どんなに工夫節約をしても同じような一皿を仕上げるためのコストには大きな差が出てしまいます。
しかしながら比較する基準に料理の質を含めるとしたらどうでしょう?調理次第でその差を縮めることができます、場合によっては逆転することもあるわけです。質、言い換えると味や満足感ということですが、例えば逆に同じような素材でも作り手の技術、感性によっては出来上がるものに差が生じるということです、さらにはその場の雰囲気、内装、食器、接客、ワインとのマリアージュ、伝統料理が本領を発揮すると同じような素材で作られた一皿でも、結果的に得られる満足感には差と言うより質そのものが違う、得がたい強い印象を持たせることができます。しかしもちろんこのことは受け取る側の個性嗜好に大きく左右されることです、どんなに良い質の高いメニューがあっても求めていない人にとってはそれも無価値なことです。その差を理解できる見識感性がなければ残念なことですが当然安い方を選ぶでしょう、もしそのような方しかいなければ文化は無用の長物、消えていくだけです。
有難いことにその差を認めてくださる方は実際に多くいますし、潜在的にそのようなことを理解できる感性をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思います。

もし比較する機会があったらそのようなことも考慮して比べていただきたいと願います。
高級な食における芸術のようなお店とまた安価なファミリーレストランのようなお店、質を基準にそれぞれどの位の評価になるのか、比較するのは大切なことと思います。値段が安いか高いか、価格とはその商品に払う対価です、ただ比較するものを挙げずに高いと言えばその商品はその価格に値しないという意味になってしまいます。
何かを評価するには比較するものを実際体験した見識が最低限必要です。それを踏まえなければそれは評価とは言えず中傷でしかありません。何かを評価するなら最低限このような評価の仕組みはわかっていてほしいものです。

私が文化から離れたものとして挙げている例えばファミリーレストランのような場所でも伝統料理の力を発揮させることはできるのでは?と考える方もきっといると思います。確かにその通り表面的にはその理屈あるかもしれません。
しかしそういった試みが実際にうまくいっていない、機能していない例を現実にいくつも見ることができます。
原因はとても多岐にあると思います。一つ大きな点を挙げて言わせてもらえば、第一に姿勢の違いがあると思います。お店の姿勢?なんじゃいそれはと言われそうですがこれは最も大切な要素です。伝統文化とは?それは長い間人から支持され好まれ残され続けてきたもの、その地にある伝統の姿、地域にあってそこに参加して貢献し支持される、長い時を経て産まれるもの、そこには善意、良識が当然前提として介在しているものです。
馬鹿げた話に聞こえるかもしれませんが、これが肝心なことで大袈裟な話でなく、レストランの役割、人を癒し修復するというこの仕事の最大の指針は「気持ち」な訳です。
お客さんと接することばかりではありません。食材を選ぶ時、調理する時も同じ。
全体に関わるとても大きな要素、これは当然そのままお客さんに伝わるし物にもその結果として違いが出てくるはずです。
道徳の話ではありません、この仕事の現実です。
考えてもみてください。ものを作り食べさせるわけです。危険なものが入っていれば命に関わる、お客さんは作り手に命や健康を委ねているわけです。
もちろん大手の外食チェーンが危険だと言っているわけではありません。
ただ全体を見渡したときにその気持ちという本来あってほしい要素がすでに無く、合理性やシステムといったことに置き換えられてしまっているのが見えてきます。
システムに善意はありません。システムを作るのは人間ですが出来たシステムに血は通っていない。
もう一つはやはり個々の力量ということがあります。餅は餅屋、伝統料理を作らせるなら伝統料理の調理人が秀でているわけです。
技術を人に伝えるのは大変難しいことです。レシピ、マニュアル、フィルターを通した情報は完全ではありません、ものを作り上げるには大変な量の情報が必要です。様々な要素とそれを統べる感性、素材自体も季節によって刻々とその性質を変えます。さらにその全体の方向性を決める品位?どうやって文章にするんでしょうか?
正確に伝えようとしたら1冊の本になってしまいます。
やはり人が人に伝えるのが確かな方法です。
「餅は餅屋」最近あるビジネスマンの方と話していて聞いた言葉です。インポーターさんの取引先の方が自社占有の商品を開発独自に輸入しようと大変な労を払って実際に輸入まで漕ぎ着けたのだそうです。しかし結局は実際に価値価格を省みると従来通りインポーターさん経由で仕入れる物と大差がなく挙句には社内でもその商品の使用する割合が減っていってしまう、ありそうな話です。独自に商品を輸入してみずから販売すればいかにも差益が出そうですが、輸入ということにも独自のノウハウ、技術ということがあるでしょう、その商品に関して見識があるというだけで輸入がうまく出来るとは限らないわけです。なるほどと唸るしかありません。
餅は餅屋、本当に調理人を目指して自分の方向を決めるならジャンルさえ怪しい大手チェーンより専門料理を選ぶのではないでしょうか?私はこのような人達を文化の担い手と認識しています。貴重な頼もしい人達、そのような人が選ぶその大きな体系、価値をただ値段で比較する愚かしさ、情報が得られないということがあると思います、そこを何とか変えられないものか苦悩しています。


02:27:26 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks