January 27, 2007

3周年を迎えます

昨年も色々なことがありましたが、私にとって最も印象深かった出来事が三国シェフの事件です。三国さんのことは印刷物やテレビでしか拝見したことはありませんが、修行時代とても憧れ見ていたものです、近年日本で最も成功したシェフの一人と言えるでしょう。事件が報道され大変残念に思い、自分なりによく調べてみましたが、暴力を振るわれたのは厨房関係の人ではなく、渉外的なビジネスを担当していた人のようです。三国さんは部下に手を上げてしまう人だったのでしょう、今回は相手が弟子ではなかったので訴えられた、というのが現実に近いところでしょう、それが弟子で“あまりに酷い暴力が続いたため告発”というのが、私の最悪の想像でしたが、そうではなかったようです。
帝国ホテルの厨房から暴力を追い出した、ということでも尊敬されていた、帝国ホテル総料理長だった村上信夫さんが、他界して間も無いその時期、この事件が起きたことは感慨深いことと思います、北欧のある国の日本大使館付きの料理長として、抜擢された三国さんがそれを契機に成功に登りつめてゆく、そのきっかけを与えたのが、村上さんだったわけです。私にはそれを伺い知ることはできませんが、三国さんの悔恨の情はおそらく相当に深いことと思います。
人は様々な場面で意見を戦わせたり、争ったりということをするものですが、この事件が重いのは、それが一方的な暴力だからです、何が暴力かはその社会や時代によっておそらく微妙に違うのでしょうが、手向かわないとわかっている相手に受話器を投げつけたりするのは今の時代どんな社会でも暴力でしょう、
私も修行時代こういう目にあったことがあります。怪我をするほどではありませんでしたが悔しいものです。何か不祥事が起きて制裁を受けるわけです。本当に自分の失敗ならまだしも、それが後で勘違いとわかっても、そういう人は謝ることもしません。理不尽の極み。暴力がなぜ悪いことかと言えば、それが取り返しのつかないことだからです。「話合い」には常に立ち戻る要素があります。しかし一度振るった暴力は、確かに人を傷つけ、様々に影響し、時に信頼関係をも破壊してしまいます。
私は絶対に自分はやらないと心に誓ったものです。

三国さんほどの方がそのようなことに陥ってしまったのは、それなりに事情のあることと思います。どのような方にも間違いはあるものです。長い歴史があれば、様々な状況も関って。事業があまりに大きくなってしまえば経営者としての苦労も絶えない、逆に今回のことを糧により質の高い世界を築かれるのでしょう。


創造的に仕事に取り組んでいる人は、無駄な争い事をしないというのが、私の持論です。
どういうことかと言うと、これは状況的なことを基にしての考え方ですが、ある大きな問題が起きていて、それが原因で人は非生産的な争いをしてしまうものだとする、“大きな問題”そういう解決し難い根源的と言える問題ほど“時代の変遷”から構造的に生じているようで、動かし難い、従来の方法ではどうすることもできない、それを解決するには創造的な力、新しいものを生み出す能力、そういうことを活かした、新たに作り上げるというやり方、が有効な訳です。大きな問題が有効に解決されつつある場所では、後ろ向きな質の低い争いが起きにくい、ジリ貧で崩れかけている場所では低俗な争いが絶えないでしょう、少し乱暴な理屈ですが、現実の場面ではおなじみかもしれません、創造的に頭を働かせている状況、場面では人は躍動的で、その空気がまた人を呼び活気があるということもあるでしょうし、理解できない人にはとても無駄に見える新しい試みは最初とても効率が悪いかもしれません。このように作り上げていくことは確かに大変なことですが、始めてみると結構面白かったりします。創造的にこなしていける人は日常手掛ける仕事に事を欠かない。つまり忙しいし楽しいので無駄な事に関る暇がない。
同時に創造的に仕事を進めるということは、独立の気概を生み、相互に現実の関りの中での、当たり前の責任を認識する助けになります。独立と言っても別にバラバラに分裂していくわけではなく、本来あるべき精神的な距離を確保することで、逆にしっかりした信頼関係を築く基本にするわけです。創造的に仕事を進めるということは自らの力量で行く方向を考え、提案しつつ仕事をこなすということです、それは自分自身を表現することでもあるし、真に課題と向き合うことでもありますから、謙虚にならざるを得ないし、問題に正しく向き合うという必要な準備が自然にできるということでも、さらに無駄な争いを生みにくくします。
非創造的なやり方しかできなければ、その場の基準は時代の変遷に取り残された崩壊しつつある体系に基づいていて、それを当然の前提としがちで、有効な方策は打てず、自然な衰退が進んでいきます。古い考え方を基にした体系でこれを補おうとすれば無理をせざるを得ません、的の外れた努力に奔走し、部下を締め付けることで解決しようとすれば、正常な距離を保てない歪んだ人間関係が蔓延します。程度の低いリーダーが部下を踏み台にやっと呼吸する末期的な状態、こんな場所には見切りをつけた方がいい。
実効のある方策を取れる、実際行っているということが、その企業の中で最も大切な職務、職責を果たしているということです。経営者の方は是非それを見逃さず責任と権限のバランスを取ってほしいものです。なかなか仕事の結果は目に見えて出るものではありません。その曖昧な中にその企業にとっての有用不要を判断する切り口は“行っている方策の質”です。問題の性質を的確に捉えて、根本的な改善を試みるまともな努力なのか、一見誠実に見える表面的な方策、質的には過去の方法の繰り返しでしかない、質の高いやり方と、質を高く見せることに長けたやり方、には大きな差があります。長い期間を置くと明らかに結果は出ますが、そうなってしまってからでは遅いわけです。運営する職場に、創造的な仕事をする能力に長けた人がもしいるなら、その人に権限を思い切って渡すべきです。表面を取り繕うことに長けた無責任なリーダーに耳を貸す必要はありません。元々創造的な能力に長けた人というのは、考え方の基本に“独立”があります。経営されている方には気が気ではないかもしれませんが、この独立の気概を持つということは、企業の一員としても大切なことと思います。別にスキがあったら独立してやろうと、眈々と狙っているわけではなくて、持ち上がった問題を前に自分ならどうするかと、考える時に独立は当然イメージされることです、全権を携えて事に当るというイメージ。このイメージを持てるかどうか、さらにはその思考力が洗練されているかどうか、それは方法論に長けているかどうかということですから、素養の良し悪しが出ます。記憶力や話術とは元を異にする能力、一見能力がありそうでいて、そういう思考力に劣る人というのは結構いるものです。人間誰しも興味のある方向に能力が伸びていきます。頭を働かせ行い成し遂げる、その目的方向がその会社を盛り上げることではなかった場合?おかしなことを言っているように聞こえるでしょう「そんな馬鹿な」と
これが実際にあります、と言うよりも相当の頻度で起きています。
本人さえ会社のためと信じているかもしれません。
実際にその人がしていることは、その人が会社のために献身的に努力しているように、見せることだけです。そう見えていることに喜びを感じ、日々そのための努力を欠かしません。表面的には分かり難いかもしれません、しかしその人がする選択は微妙にずれています。そのずれた方策の繰り返しで、その企業は緩やかにしかし確実に、如いては抜け出し難い窮地に陥ってしまいます。内部に見えない造反者を抱えているようなものですからそれは深刻です。
その人がなぜそんな無責任なことをするのか?権限と責任のバランスを崩し、ずれた戦略を打ち出し続ける、質や実力以外のことで人選を行う、それはその人の目的が、その取り繕った表面とは裏腹に、自分の利益だけだからです。仕事をするということには働いて対価を得るということ以外にも様々な意味があり、それが必要な要素でもあります。仕事を通しての自己実現、仕事でなければできないような難しい挑戦をすること、誠実さを鍛え信頼を勝ち取り、忍耐を重ねる、社会貢献、日々修行のようなものです、その中でより高い人間性を得るということに意識を置く、誰も口にはしませんが当たり前のことではないでしょうか?品性の欠けた方には苦手なことばかりです。しかし長期的、相対的に品性が仕事を助けるということは確実にあるものです。品性無くして本当に有効な方向性を打ち出すことは難しいことだと思います。私が知る優秀な経営者の方には間違いなくこういう要素を見ることができます。
認識の違いが大きな差を生みます。例えば景気が良かったり、時流に乗れたりという、たまたま恵まれた状況に人が置かれた時、愚かな品性に欠ける人はあっという間に、その力を自分の物と錯覚してこれを頼りとしてしまいます。得たこの権益だけは逃すまいと徹底して追従するでしょう。独立、創造的な精神で同じことを捉えるなら、それは確かにチャンスではあっても、権益であるわけがないですから、そもそも所有しようなどとは思わないわけです。努力の質に寸分の変化もありません。実力で得たわけではないものに執着はありません、それは借り物でいつか返さなければいけないわけです。
質でなく形に捉われて社会を見誤っている、そのような方は確かに、相当な頻度でいます。大きな流れの中でそれは自ずと明かになることです。

本当に仕事を通して色々なことを学ぶものです







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January 23, 2007

検索

近頃ホームページ関連Seo対策などをする会社は過当競争のようでうちのような小さな店にも頻繁に電話勧誘がきます、あまり広告費を掛けるのはうちのやり方ではありませんから、お願いするつもりはないのですがこれはと思う会社さんにはその旨お話した上で来ていただいて情報収集させていただいています。
検索エンジンのシステムというのはどんどん進化するもののようです。できるだけ検索に引っ掛かるようにホームページを作成することがその企業にとってより利益のあることなのですが、あるホームページ制作会社の提案に、SEO対策としてより検索に当る登録キーワードを検索するソフトを使用するということがありましたが、なんとそのソフトの使用料が30万円え〜1年ほど前に作られたソフトだそうですが、大企業は大抵そのソフトを使って、故に当然のように検索上位にあるという説明でした。
より検索システムが高度になり、その様は有機的とも言えるほど複雑に、その検索を解析するには、またとんでもないシステムが必要で、それを開発するにはまたさらに費用が掛かる。あべこべですね、それなら別に裏ワザのようなシステムを開発するよりまともに努力すればいいんじゃない?
新しい検索システムはよりユーザーの満足を追及した結果、作り上げられていくもので、質を訴求して進化するもの。
ならば別に攻略本はいらないわけです。
より質の高い情報をできるだけ頻繁に更新していけばいいだけのことです。
つまり当たり前の努力。
右往左往する必要はないですね、質的な考察をすればわかることです。
現在ラ・フレッチャは特別なSeo対策なしに中野坂上 イタリアンで2位です。下位にぐるなび、グルメウオーカー、ホットペッパーなどで紹介されている店がありますから痛快です。




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January 22, 2007

閾値

「クッキングセミナー」の続き
調理の理論の中で大切な概念の一つに閾値という事があります。かいつまんでどういう事かというと、ある液中にXという素材を段階的に足していって、全体を味わってXが始めて感じられるXの量を、ある液中のXの閾値とするということです。
素材同士は様々に影響し合って相関関係はとても複雑なものです。その中でも最も特殊な素材は塩です、塩は人の体の組成を担う重要な一つの要素で浸透圧という仕組みが関与して情報を伝えるか否かということにも関わって特殊なものです。
他の素材と同様の計り方をすると塩の閾値は0.3%前後ですが、自然にある相関関係まで考慮するとそれは0.2%前後、どういう事かというと塩の味そのものが感じられるのは0.3%からでそれ以前(0.2%から)は旨みを伝えることに関与するものとしてそれを計ることができる、そういうことです。
つまり塩はそれ自体が感じられる以前にその食べ物のおいしさ(旨み)を引き出すことに関わっていると言うことができます。、塩を感じる前の段階でどの程度に旨みを引き出すかということが本来注目されていることで、それさえも感じられない加減に意味はありません。
そういう微妙な領域を理解できない、薄味というトリックに騙された人が口にする妄想に過ぎないと言うと言い過ぎかもしれませんが。
抜け出せない方が実際にいるのは確かです。
閾値ということに関しては日本では文献に記述されたものが広くありますし、漠然と理解されていることと思います。
セミナーの主賓の方が失敗してしまったのは、この僅かな範囲の中でのことです、旨みを盛り上げる加減に僅かに足りていなかった。
私が察するに、彼はおそらくその加減を彼の師から伝えられたとき、理解の範疇を超えてそれが有って、とても強い印象を受けたのだと思います。その印象を伝えたいがために少々大袈裟に薄くしてしまった、のではないかと。
その時私は、愚かなその場だけの自己主張したければ、できたのかもしれません。ちょっとしたマジシャン、彼の作った物を誰かに試食させ、後ろに隠してアブラカダブラ・・・「ほ〜ら食べてごらんさっきよりおいしいだろぅ」そのとき魔法よろしく振り掛けるのは僅か0.1gから0.2gのただの塩、それだけで実際にその一皿を感動できるものに変えることができる、方や2つ星のスーシェフ、さぞかし気持ちのいいことでしょう、料理は恐いと思いました、おいしいかまずいかは大体の確率で多くの人に明らかなこと、なんです。



01:42:32 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

January 17, 2007

トリック

「クッキングセミナー」の続きです。
試食もさせてもらいました、8品ほど出していただきましたが、正直な話まずくはありませんでした、でも特別においしくもない。その程度の力しかない方がスーシェフでミシュランの2つ星を維持できるわけがありません。場所が違えば食材も環境も違う、お店ですることとは違うことをされたということなのでしょう。しかし残念ですが、私には食べたもので判断するしかありません。正直な感想を述べると、全体的には食材をそのまま食べているという印象です、日本でもたまに出会う“トリック”、調度よく加減する努力を放棄してしまうわけです。非常に楽です。食べる人の感じ方を気に掛けるわけでなく、食材の性質を精査したり、ニュアンスを食べる方に伝えること、そのようなことを置き去りにした加減、その濃さに意味はないわけです。そのトリックのキーワードは「ヘルシー」「上品」塩加減は確かに味付けの一つの要素ではありますが、唯一他の要素を伝えるためにも加減しなければいけない基本的な素材です。
スープなどの調理をしているとよくわかります。塩が感じられるほど入れてしまえばもうそれはすでに入れ過ぎですが、それ以前に少しずつ足していくと、他の要素、旨み、風味がやはり少しずつ感じられるようになるのがわかります。
具体的には、肉を焼くとしましょう、その旨みを引き出すには最低0.5%程度の塩分が必要になります。それだけでおいしく食べるには0.7%、強調する意図で0.9%にすることはあるでしょう、ちなみにソーセージなどは2%もの塩を作る際加えます。
旨みが強い素材にはそれだけ加減できる塩分に幅があります。
たいていの現場の調理人さんはそんなことはわかっています。0.5から0.7%多くても0.9%程度の中で様々な要素を精査しつつ食材に塩分を与えます。今回試食した料理は0.4%前後、単純に0.1〜0.2%の塩分を足すだけでも、その食材のおいしさがより豊かに現れるはずです。
2つ星を標榜する料理人さんに「おいしいでしょう」と言われ出された料理はなかなかまずいとは言えない、はっきりまずいものではありませんから、こんなものかなぁと思いつつ異議は表明しない。童話「裸の王様」のトリック。
普通新しい料理の体系に出会って、それを自分の場所に取り入れようとするなら、その料理をまず食べたり、自分で再現する努力をするべきと思います。
タタキという料理を作ろう、それを店で提供しようと思ったら、まずその料理の体系を学んで理解することが最低限必要なことと思います。それをせず形だけ取り入れその場しのぎにものを作ろうとするから、テフロン加工のフライパンを強火で空焼きするなどということになってしまうのでしょう。これは愚かなことです。
日本人なら大抵の人、料理人でなくてもタタキが直火で炙り焼きしておいしいものと知っています。日本の文化を理解しようとしない人にSUSHIと標榜してほしくない、そう思いました。


22:58:26 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

January 16, 2007

クッキングセミナー

私がとても信頼するインポーターさんが開催する調理セミナーに行ってきました、そのインポーターさんは営業の方も頑張っているし、商品も素晴らしい、うちの店に欠かせない存在です。頻繁に開催していただいているセミナーも毎回素晴らしいのですが、今回は招いた方が良くない、アンコーナのミシュラン2つ星のレストランでスーシェフ(セカンド)を務めている方という紹介でしたが、**です。
最初に紹介された話にまず耳を疑いました。日本の寿司からインスピレーションを得てメニュー展開を実際にされているそうなのですが、本場の寿司を食べるのは今回が初めてなのだそうです。当日紹介していただく料理もそのインスピレーションを得たという寿司をモチーフに組み立てたもののようです。
つまりその料理を充分に理解することなしに上辺だけを模倣した料理、セミナーのパンフレットを拝見するとイタリアのそのお店のキャッチコピーに寿司(SUSHI)と実際に載せている、私が大嫌いな商業的な匂いがしてきました。
彼の挨拶が始まりました、それはクッキングセミナーです、私が同じ立場なら自らが日頃伝えたいと感じている特別なもの、こう有ってほしいという理想、そのセミナーが意味を持つ何かを表現することがあるのではないか?
彼はイタリア料理が他の料理体系と違う点は「情熱」で、計ることよりもいかに情熱を注ぎ込むかが大切なんだと語りました。その情熱の内容は?満場の人がそのイタリアの方を目の前にして興味を持ち、2つ星のレストランのスーシェフがどんなことに情熱を感じているかを聞こうと耳を傾けているのに、その話の続きはありません、表現するべき中身を言わずに、精力的だとアピールするだけ、誰にもその話は伝わらない、それは話に中身がないからです。
通訳の方が言うとそれなりに聞こえてしまいますが、そういうことなのでしょう。
第一に来日して初めて寿司を食べた方が、その寿司を模倣した料理をすでにメニューに載せて提供している事、第二に日本のタタキを真似た料理でテフロン加工のフライパンを強火で過熱する愚かさ、エルブジと交流があり、影響を受けたと標榜していて科学的検証(食品の安全)を怠っている。日本人の私達には彼が表現したい料理を、彼より高いレベルで表現することが可能と思います。日本のエッセンスをわざわざ日本で主張することに違和感を感じざるを得ません、もっと洗練されているのかという漠然とした期待は裏切られました。
日本とイタリアを置き換えて考えるとわかります。
日本で日本料理の職人さんが本当のイタリア料理を学ぶことさえせず、中途半端に模倣してメニューを考案し、日本で商業的にウケている、それをイタリアに持ち込んでセミナーをしたら、きっとイタリアではそんなものを誰も相手にしないでしょうが、それは愚かなことでしょう、日本の料理人から見てそれがどのように映るか。
寿司の最も重要なニュアンスは“炊いたばかりのほんのり温かいシャリと冷たいネタを合わせて、よりネタの個性、良さを食べる人に分り易く伝える事“そんなことなのではないでしょうか?彼がそれを理解しているのか疑問です。
特に無責任なことはテフロン加工のフライパンは空焚きすると、環境ホルモンに関した有害物質が大量に出ますから、空の状態強火では用いないことが肝心です。そこのところがセミナーを聞きに来た将来のシェフ達に間違って伝わってしまっていないか心配です。よほど手を上げて指摘しようと思ったのですができませんでした。すみませんもう少し勇気があれば。


02:04:58 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks