May 09, 2008

私はアメリカの食文化が嫌いです


私達のレストランのイメージというのはヨーロッパ的なものです。
しかし一般の日本人のレストラン感はどちらかと言えばアメリカ的なものでしょう、
さてどう違うのか?
これが実は大変な差があります。
分かりやすいところでは、アメリカのそれは、レストランと言うよりもレストランビジネスと言ったほうが内容が把握しやすい、純粋な商行為なんです。
その先にチェーン店化、資本導入が見えているような。
いいものがあるからそれを広く大きく売ろう、それはいいと思いますが。
ヨーロッパのレストランはそこが全く違います、もちろん店舗です、売り上げ次第で存続が決まる。
しかしヨーロッパのレストランは、ビジネスだけでなく文化の要素が大きくあります。
うまいレストランがある、当たり前のことなんです。アメリカの人が見るとなぜもっと大きくしないの?と不思議に思うかもしれません。
それは商行為だけではなく、その地域を成り立たせるべくあるレストラン業だからです。
格好をつけて言っている、何か期待して虚勢を張っている、いえいえそうではありません。これは切実な現実なんです。
はっきり言ってしまいましょう、レストランという仕事には商行為とは別の要素があります。
当たり前に成り立たせるべく、必要な手順があります。
公私にできるだけ負担を少なくする仕入れの努力があり、仕入れたものを無駄にしない努力があり、生活を成り立たせる程度の利益は上乗せして営業しています。
サーヴィスでは支障をきたさない配慮を維持しつつ、人間同士の付き合いを大切にして、招いたお客様が喜んで帰っていただけるよう最善を尽くします。

アメリカ的なレストランではお客さんは顧客?人間ではありません。
払う金に応じてサーヴィスの質、内容は決められています。
人間同士の付き合いはそこにはありません。
愚かな個人同士のせめぎ合い、気持ち悪いこと
やたらと客であることを主張して、初めて名乗り合ったばかりの人、相手に言いたい放題。
許せませんね。
これがアメリカのレストランビジネス?です。
ヨーロッパのレストランに営業時間外に行っても予約さえできませんよ、当たり前なんです。当たり前に従業員の人も休憩や食事を楽しんでいて、私は客だから時間も内容も無視、なんていう人は相手にされません。
アメリカ、その中でも一部のことだと思いますが、そこに日本人はとても毒されていますね〜
「田舎もの」意味は違うかもしれませんが、私はこういう人達のことをそう呼んでいます。
目の前にいる人間に当たり前の敬意を払えない、こういう人には店に来てもらいたくありません。



02:39:29 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

November 15, 2006

プリミティーボ

イタリアの方は自分の地元、住む土地をとても大切に考えます。それ故にその土地のものを紹介する際、そもそもその物に名前を与える時点から対外的にしっかり形を作って表現、表明しています。プリミティーボという名前の(品種名でもあります。)ワインがありますが、これはおそらく土地の方が(プーリア州など南の各州)その品種のワインをプロデュースする際もうすでにアメリカでジンファンデルの成功があったのでしょう、その原種がこのプリミティーボ(プリミティブ)なんだよという意味合いを込めたイタリアの方らしい命名のようです、考えてみるとその原種にプリミティブと命名されているのはおかしいですよね、言語の起源の話ではないのですから、元々そういう名前ならすごい偶然です。
パスタ料理カルボナーラの名前が付けられたのは世界大戦以降のごく近年のことですが、それにも拘わらず伝統料理然とした命名です。炭焼き職人風、似たような職業を元にした料理名は様々にあります。カチャトラは山の猟師、ペスカトーラは海の漁師、ボスカイォーロは木こり風だそうです。それぞれに必然的な相応しい内容があるものですが、カルボナーラはちょっと分かりにくい、きっと視覚的な要素、炭とブラックペッパーを掛けているのではないしょうか、炭焼き職人さんに特に関連した素材であったり、そういう方が好んで食べたというわけではないでしょうから、これは命名した方が伝統料理風に名前をアレンジしたものなのだと思われます。
それにしても響きのいい人気の出そうな名前です。

テレビでイタリアのものというと私はつい観てしまいます、土地の方に自由に話をさせていると家族の自慢話から始まりその土地がどれほど良い場所なのかを表現してそれは永遠に続きそうな勢いです。本当に愛して止まないそんな雰囲気が明確にあります。それとは逆にいや、だからこそなのでしょうか、
そんなイタリアの人たちは他者への感心も同時に強く持っています。
特に地方へいくほどそれは顕著にあります。
私事の旅行談ですがカンパーニャナポリの外れで道に迷い地図を広げていたのですがその辺り中から人が集まってきました、講釈が始まり挙句に地図は取上げられあぁでもこうでもない。そこの人達は公共の場所でそこにいる他の人達へとても強い関心を持っています。
日本ではこれはないことですよね、尋ねて教えてもらうのが自然なことと思います、外国人だったりすると逃げてしまったり。
公共の場所で他人に感心をもつことは愚かしいそんな風潮が日本にはあると思います。
公共の場所、他人と関わらずにはいられない場所、そんなところで他人に関心を持たない、持っていない体裁をとる、他人を無視する文化。

子供は社会の鑑と昔から言われることですが、子供がいじめをするのは大人がしているからでしょう、大人達にはそれは普通のことで気が付けないというだけで何も子供のことは不思議なことではありません、最近パワハラという日本固有の言葉が注目されているようですが、実はこれが本題で子供のいじめは反響に過ぎないのではないでしょうか、嫌がらせをすることで自らの目的を遂げようとする、話し合いでも指導でもなく嫌がらせをすることによって相手の譲歩を引き出そうとする、そういう愚かな人はたくさんいますね、何も生まず、実質的に成果を上げることはなく、興味があるのは常に自分の利益だけ、仕事の面白さ、作り上げる、創造することの面白さを理解することはない。
可哀そうな人達ですがとても有害でもあります。
こういう人とは関わりたくないものです、しかし実際にはそうもいきません。
とても不思議なことです、目の前に当たり前に面白いこと(仕事)があるのにそうでない、本来協力するべき仲間に嫌がらせをして満足する、いったい彼らは何をしたいのでしょうか?私が独立したのはこのようなことから完全に離れた環境をつくりあげられないか試す事も考えてのものでした。
当然ラ・フレッチャではパワハラのようなことはしませんし、あったら許しません。
もちろん、いい年をして責任を自覚できない人や権利だけ主張する我侭な人を弁護するつもりはさらさらありませんが、うちの店では話し合いが基本です、堂々と言えることは言えばいいし、責任を抱えたなら権利を主張すればいい、これ当たり前のことです。このようなことが隅々まであって生きていける環境がいいと思います。でもそれは現実にはなかなか難しいことのようです。
得た権益は決して手放さず出来る限り利用して、それを指摘されても図々しくも決してそれを認めない、権益を得た人と責任を持つ人は別なのが現実のようです。
そんな社会に健全な子供があることを望むのが間違いなのでしょう、それは必然のようです。全体像がそのように見えるので個々にそれを克服しようとしても大変難しいことになってしまいます。子供のいじめのことは大人がちゃんと成熟した大人の社会をつくらないと解決しないことなのではないでしょうか?



10:02:41 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks