January 22, 2007

閾値

「クッキングセミナー」の続き
調理の理論の中で大切な概念の一つに閾値という事があります。かいつまんでどういう事かというと、ある液中にXという素材を段階的に足していって、全体を味わってXが始めて感じられるXの量を、ある液中のXの閾値とするということです。
素材同士は様々に影響し合って相関関係はとても複雑なものです。その中でも最も特殊な素材は塩です、塩は人の体の組成を担う重要な一つの要素で浸透圧という仕組みが関与して情報を伝えるか否かということにも関わって特殊なものです。
他の素材と同様の計り方をすると塩の閾値は0.3%前後ですが、自然にある相関関係まで考慮するとそれは0.2%前後、どういう事かというと塩の味そのものが感じられるのは0.3%からでそれ以前(0.2%から)は旨みを伝えることに関与するものとしてそれを計ることができる、そういうことです。
つまり塩はそれ自体が感じられる以前にその食べ物のおいしさ(旨み)を引き出すことに関わっていると言うことができます。、塩を感じる前の段階でどの程度に旨みを引き出すかということが本来注目されていることで、それさえも感じられない加減に意味はありません。
そういう微妙な領域を理解できない、薄味というトリックに騙された人が口にする妄想に過ぎないと言うと言い過ぎかもしれませんが。
抜け出せない方が実際にいるのは確かです。
閾値ということに関しては日本では文献に記述されたものが広くありますし、漠然と理解されていることと思います。
セミナーの主賓の方が失敗してしまったのは、この僅かな範囲の中でのことです、旨みを盛り上げる加減に僅かに足りていなかった。
私が察するに、彼はおそらくその加減を彼の師から伝えられたとき、理解の範疇を超えてそれが有って、とても強い印象を受けたのだと思います。その印象を伝えたいがために少々大袈裟に薄くしてしまった、のではないかと。
その時私は、愚かなその場だけの自己主張したければ、できたのかもしれません。ちょっとしたマジシャン、彼の作った物を誰かに試食させ、後ろに隠してアブラカダブラ・・・「ほ〜ら食べてごらんさっきよりおいしいだろぅ」そのとき魔法よろしく振り掛けるのは僅か0.1gから0.2gのただの塩、それだけで実際にその一皿を感動できるものに変えることができる、方や2つ星のスーシェフ、さぞかし気持ちのいいことでしょう、料理は恐いと思いました、おいしいかまずいかは大体の確率で多くの人に明らかなこと、なんです。



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January 17, 2007

トリック

「クッキングセミナー」の続きです。
試食もさせてもらいました、8品ほど出していただきましたが、正直な話まずくはありませんでした、でも特別においしくもない。その程度の力しかない方がスーシェフでミシュランの2つ星を維持できるわけがありません。場所が違えば食材も環境も違う、お店ですることとは違うことをされたということなのでしょう。しかし残念ですが、私には食べたもので判断するしかありません。正直な感想を述べると、全体的には食材をそのまま食べているという印象です、日本でもたまに出会う“トリック”、調度よく加減する努力を放棄してしまうわけです。非常に楽です。食べる人の感じ方を気に掛けるわけでなく、食材の性質を精査したり、ニュアンスを食べる方に伝えること、そのようなことを置き去りにした加減、その濃さに意味はないわけです。そのトリックのキーワードは「ヘルシー」「上品」塩加減は確かに味付けの一つの要素ではありますが、唯一他の要素を伝えるためにも加減しなければいけない基本的な素材です。
スープなどの調理をしているとよくわかります。塩が感じられるほど入れてしまえばもうそれはすでに入れ過ぎですが、それ以前に少しずつ足していくと、他の要素、旨み、風味がやはり少しずつ感じられるようになるのがわかります。
具体的には、肉を焼くとしましょう、その旨みを引き出すには最低0.5%程度の塩分が必要になります。それだけでおいしく食べるには0.7%、強調する意図で0.9%にすることはあるでしょう、ちなみにソーセージなどは2%もの塩を作る際加えます。
旨みが強い素材にはそれだけ加減できる塩分に幅があります。
たいていの現場の調理人さんはそんなことはわかっています。0.5から0.7%多くても0.9%程度の中で様々な要素を精査しつつ食材に塩分を与えます。今回試食した料理は0.4%前後、単純に0.1〜0.2%の塩分を足すだけでも、その食材のおいしさがより豊かに現れるはずです。
2つ星を標榜する料理人さんに「おいしいでしょう」と言われ出された料理はなかなかまずいとは言えない、はっきりまずいものではありませんから、こんなものかなぁと思いつつ異議は表明しない。童話「裸の王様」のトリック。
普通新しい料理の体系に出会って、それを自分の場所に取り入れようとするなら、その料理をまず食べたり、自分で再現する努力をするべきと思います。
タタキという料理を作ろう、それを店で提供しようと思ったら、まずその料理の体系を学んで理解することが最低限必要なことと思います。それをせず形だけ取り入れその場しのぎにものを作ろうとするから、テフロン加工のフライパンを強火で空焼きするなどということになってしまうのでしょう。これは愚かなことです。
日本人なら大抵の人、料理人でなくてもタタキが直火で炙り焼きしておいしいものと知っています。日本の文化を理解しようとしない人にSUSHIと標榜してほしくない、そう思いました。


22:58:26 | lafreccia | | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks

January 16, 2007

クッキングセミナー

私がとても信頼するインポーターさんが開催する調理セミナーに行ってきました、そのインポーターさんは営業の方も頑張っているし、商品も素晴らしい、うちの店に欠かせない存在です。頻繁に開催していただいているセミナーも毎回素晴らしいのですが、今回は招いた方が良くない、アンコーナのミシュラン2つ星のレストランでスーシェフ(セカンド)を務めている方という紹介でしたが、**です。
最初に紹介された話にまず耳を疑いました。日本の寿司からインスピレーションを得てメニュー展開を実際にされているそうなのですが、本場の寿司を食べるのは今回が初めてなのだそうです。当日紹介していただく料理もそのインスピレーションを得たという寿司をモチーフに組み立てたもののようです。
つまりその料理を充分に理解することなしに上辺だけを模倣した料理、セミナーのパンフレットを拝見するとイタリアのそのお店のキャッチコピーに寿司(SUSHI)と実際に載せている、私が大嫌いな商業的な匂いがしてきました。
彼の挨拶が始まりました、それはクッキングセミナーです、私が同じ立場なら自らが日頃伝えたいと感じている特別なもの、こう有ってほしいという理想、そのセミナーが意味を持つ何かを表現することがあるのではないか?
彼はイタリア料理が他の料理体系と違う点は「情熱」で、計ることよりもいかに情熱を注ぎ込むかが大切なんだと語りました。その情熱の内容は?満場の人がそのイタリアの方を目の前にして興味を持ち、2つ星のレストランのスーシェフがどんなことに情熱を感じているかを聞こうと耳を傾けているのに、その話の続きはありません、表現するべき中身を言わずに、精力的だとアピールするだけ、誰にもその話は伝わらない、それは話に中身がないからです。
通訳の方が言うとそれなりに聞こえてしまいますが、そういうことなのでしょう。
第一に来日して初めて寿司を食べた方が、その寿司を模倣した料理をすでにメニューに載せて提供している事、第二に日本のタタキを真似た料理でテフロン加工のフライパンを強火で過熱する愚かさ、エルブジと交流があり、影響を受けたと標榜していて科学的検証(食品の安全)を怠っている。日本人の私達には彼が表現したい料理を、彼より高いレベルで表現することが可能と思います。日本のエッセンスをわざわざ日本で主張することに違和感を感じざるを得ません、もっと洗練されているのかという漠然とした期待は裏切られました。
日本とイタリアを置き換えて考えるとわかります。
日本で日本料理の職人さんが本当のイタリア料理を学ぶことさえせず、中途半端に模倣してメニューを考案し、日本で商業的にウケている、それをイタリアに持ち込んでセミナーをしたら、きっとイタリアではそんなものを誰も相手にしないでしょうが、それは愚かなことでしょう、日本の料理人から見てそれがどのように映るか。
寿司の最も重要なニュアンスは“炊いたばかりのほんのり温かいシャリと冷たいネタを合わせて、よりネタの個性、良さを食べる人に分り易く伝える事“そんなことなのではないでしょうか?彼がそれを理解しているのか疑問です。
特に無責任なことはテフロン加工のフライパンは空焚きすると、環境ホルモンに関した有害物質が大量に出ますから、空の状態強火では用いないことが肝心です。そこのところがセミナーを聞きに来た将来のシェフ達に間違って伝わってしまっていないか心配です。よほど手を上げて指摘しようと思ったのですができませんでした。すみませんもう少し勇気があれば。


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September 23, 2006

薄さの加減

関西の料理で椀物、先日テレビで見たのはハモが骨切りされふっくらと中央にあって澄んだ出汁がはってある、その出汁は大量の昆布と鰹節が使われた相当に旨みの強いものです、その旨みを最大限引き出すならかなりの量の塩を加えなければいけません、必要なだけ入れてしまえば確かに印象の強いものではありますが、疲れる、食べ進めるうちに味覚が疲れ辛い味の料理になってしまいます、そうせず敢えて余分な旨みを残してその甘みを楽しませる料理にしています。私は関西人ではないので想像ですがこういう味をまったりと言うのではないでしょうか。その塩加減は料理を食べ終わったとき、お椀の汁を飲み干したときに丁度良くなるようなところに基準をおいて付けるものなのではないかと想像していますが今度機会があったら訊いてみることにしましょう。
こういったことは食べる方に狙った通りの満足を与えようという洗練された技、日本の誇るべき食における一つの技術と思います。さて、そうでなく習慣的に何でも薄味にしてしまうということはどうなのでしょう、病気の治療であれば仕方ありませんが、旨みを楽しみたい料理に必要な量の塩を加えなければ、それはただのパンチに欠けた料理です。どの旨みをどのくらいまで引き出すかは料理人のセンスが試されるところでしょう。先の椀物テレビ番組の中で味をみた出演者が上品なと表現していましたが、作り手は上品に抑えられた部分でなく塩を抑えたことによって引き出された甘みを理解してコメントして欲しかったのではないかと私は直感していましたがどうなのでしょう。

老舗のちゃんこ屋さんで一度忘年会を開いたことがあります。格式あるお店のようで給仕してくれた男性の店員さんも慇懃な融通の利かなそうな物腰です。さてちゃんこ鍋が中心のコースです、前菜、お刺身冷菜の類いは問題なくいただきましたが肝心のちゃんこ鍋の味付けが薄い、鍋からあげた具材をそのまま食べる食べ方で手元に味を調整できるものは何もありません、練り物の類いは元々塩気がありますから良いのですが野菜やそのままの肉もやはり同じように食べなければいけません。それらを同じ扱いにするというのはそもそも乱暴な料理です。味を濃くして欲しい旨を店員さんに伝えると冷たく返されたお話は「後々煮詰まると味が濃くなり過ぎ最後の雑炊がくどくなるから、そのまま食べてください」驚きました、その店ではお客さんが食べている鍋で後の料理のための出汁をとってその出し殻をそのまま客に食べさせているわけなんです。店員さんの話通りに受け取るとそういうことです。皿に取り上げた具の加減を調整する手立てはいくらでもあるはずです、当店ではこのぐらいの濃さでという答えなのかと想像していましたが違いました。このようなことは論外ですがそもそも塩を控えて出汁の甘みまろやかさを楽しませることと、ただ薄く味を付けることとは素材やその料理によって明らかに違うことです、その手法食材は多岐に渡りとても一括りにはできないことですが、その料理人が伝えたいまったりした味まろやかさを想像しつつ注意して味わうとその差は明らかでそこを履き違えるとそのちゃんこ屋さんのようにお客さん不在の大変お粗末なことになってしまいます。
ちなみに薄い味で我慢してとった出汁で作った雑炊はこれもやはりぼやけた薄味でした、刺身用に出されていた醤油を少量ふって食べてみるとなかなか良い素材を使っているようでおいしくいただけました。そもそもうどんなどは麺自体に味を持たせてあるもので極端な話麺だけでもおいしく食べることができます。しかしご飯は確かに農家の方が自分達で食べるための取っておきのものなど分けていただくと本当にそのままでおいしいものですが一般的には塩もしくは塩分のある惣菜と合わせるのが必要なもので、そもそも料理、勧めてもらったコース自体が料理として成り立っていないわけです。ご飯の食べ方も極めていない出汁の使いかたも理解していない。

お客さんの感じたことに無関心なのは伝統料理から離れた形骸なのではないかと思います、お客さんの長い間の支持があるから伝統であるわけでそれは自明の理としか言い様がありません。
京都の薄味、野菜が豊富に採れる京都ならではで、その野菜をまとめて煮炊きして数日に渡って温め直していただくと云う食習慣がそもそもあり温め直して食べるものに濃い味を付けてしまうと後々濃くなり過ぎ食べ辛くなってしまう、最初薄く味を控えて調理する、食べる際それぞれ好みで味を足して食べるということもされていたようです。これが京都の薄味のルーツであるようです。公家、労働しない貴族が上品な薄味を好んだからということも要素としてあげられることですがこれは眉唾で、わずか一握りの人達の嗜好、要素の一つが伝統文化そのものに影響したとは考え難いと思います。
味そのものに影響したと言うよりも受け取る側の意識の問題で、薄味=上品という与えられた先入観念から個人の好み、個人差ということを考慮網羅して味付けすることは意識されなくなったのではないかと思います。好みの加減ということは当たり前に認識されていたわけなので、それが受け取る側の認識不足なのか、おそらく京都から離れて他の地で商売として運営されるようになってのち、その食文化の中身が取り残され場面場面で加減して味を表現する繊細な技術は忘れられ薄味という裸の王様が一人歩きする状況?そう私は思います。

敢えて薄味に仕上げて余分な旨み、甘みを楽しむ
これはイタリア料理にはない概念です、しかしながら私が思うに体系的に考えて同じように扱われているのがオリーブオイルの使われ方ではないかと思っています、当て付けのようですがまったりと言う表現が似合いそうな風味ではあります、他の植物性の油脂と比べて唯一種でなく実から絞られるそのオイルは明らかに加熱も比較的低温でしてほしい風味が大切な調味料です。
パスタのソースにも色々なタイプがありますがオイルの風味を重視したいものは特に慎重に塩加減をする必要があります、他のソース例えばクリーム系のソースは加減を付けられる範囲が狭くタイトなのですが逆にそこしかないので旨みに注意しつつ付けていけば間違うことはありません。しかしオイル系ソースの場合旨みを頼りに塩を足していくと入れ過ぎてしまいがちです。オイルの風味が強調される邪魔しない程度の塩加減が適当です、入れ過ぎないことでオイルの甘みを強調するということです。
修行時代最初に立ちはだかった壁はこのオリーブオイルの使い方でした。油は食味としては重いものでできれば少なく抑えたいという考え方がイタリア料理以外の料理体系に共通してあるものと思います。しかしイタリアではそれは明かに植物の絞り汁で調味料として捉えられていて調理の仕上げに当然加え調整されるものなんです。
あービックリ先輩が仕上げにドボドボは言い過ぎですがかなりの量のオリーブ油を入れているのを見てとても自分にはできないのではと心配しましたが、理解すればそれはそれほど不自然なことではなく、調味料の一つとして欠かせないものと理解することができます。特に様々な酸味を駆使するイタリア料理ではそれはバランスを取るための素材として欠かせないものです。
イタリア料理の体系的な流れを見ると古くはアグロドルチェ=甘酸っぱい味付けが多様されていたところに、おそらくはトマトの導入が転機となってオリーブ油と酸味のバランスが重視される、体系的に一段確かなレベルに至ったステップアップを見ることができます。現在三大料理というとトルコ料理、フレンチ、チャイニーズだそうなのですが、イタリア料理の文化的な確かさはぜひモデルにしたいところです。





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September 08, 2006

裸の王様

料理人にとっても塩加減というのはとても難しいものです。
ちょうどいい塩加減は人によってそれぞれ微妙に違うものです。全ての人がおいしいと感じる塩加減は限られた非常に狭い範囲にあります。特に夏場暑い季節は人によって食欲も落ち、代謝にも関係して個人差が出るものでおいしいと感じる加減にさらに大きく差が出てしまう場合があります。そうなるともう同じ加減で全ての方に満足してもらうのは不可能になってしまいます。

日本では主食のご飯に塩分を加えずその分塩加減の強い惣菜を取り合わせ適度な塩分になるよう調整して食べるという食習慣があります。
この習慣があることによっても嗜好の差で薄味が良かったり逆だったり個人差が出てどちらかに傾いてしまう可能性があると思います。
確かに塩分の強い食品も単体でなくご飯と食べたり酒の肴として食べるとおいしく感じられるものです。
一般的に薄味は上品という概念があるようですが、さてその薄味とはなんでしょう?色々な尺度があります、色の濃い薄い、旨みの強い弱い、塩加減が薄い濃い、一般的に関西の料理は色が薄いようです。よく出汁を効かせ醤油は薄口を使い澄んだ汁がいかにも上品に見えます。ただこれが様々な研究統計によって実際に取っている塩分の量は関東も関西も言われるほど大きな差はないという結果が出ているそうです、塩分の差と思われていたのが実は見た目の濃さや調味料、出汁の使い方の差だったわけです。
塩加減は調理し作りだした味が食べた人に好ましく伝わるかどうかという考え方をすると分かり易い、塩は過程において味を作ることにも関係していますが、最終段階で確実に調整しておかなければいけないものでもあるわけです。
食習慣や体調などで個々人固有の適当な塩分濃度は浸透圧が関与しているかのように感覚器官の感覚の領域で快、不快が分けられるものと私は理解しています。
調味料は閾値以下で使うもので塩に関しても同じ、閾値を越えた分、塩そのものの味が不快さの元になります。塩水は不味いですよね、何の旨みもない水なら閾値も0で塩分を加えずに飲むのがおいしい、閾値に達する前の塩はその食材の旨みを引き出すために使われる塩でこの旨みが強ければその分より多くの塩が必要になります。
ここで注意すべきことは旨みの特に強い食材の場合その全てを引き出す必要もないということでしょうか、これも個人差のあることですがその旨みの強さ自体に味覚が疲れてしまうということもあります。これは調理する側としては分かり辛くなりますから分けて考えた方がいいことです。ある程度の上限を設けてそこまでは旨みに合わせて塩をしてそれ以上は控えるというやり方です。その調理の場面、強調したい食材によってこの限りでない場合もあります。毎日注意して加減していればいずれこの感覚はついてきます。旨みと関係なく塩自体の量を感じられることと、旨みを引き出すだけの塩の量、旨みを最大限引き出す量、を捉えて自分のものにすることです。
地域差よりも個人差が調理人である私達にとっては深刻なことです。
埋めようのない差を補うにはどうするか、基本的に体調を保ち感覚を磨くことが作る側の努力として重要ですが、現実の場面であらかじめ食べる方の加減がわかっていればそのように作り、そうでない場合(全ての人にとって自分の感覚は「普通」です。お尋ねしても分らないのが普通です。)予想できる範囲でどちらかに合わせるしかなく、一度つけたものは減らすことはできませんから薄い加減に合わせるのが必然です、濃い加減の方には塩を用意して申し訳なくも自分で加減していただく。
これは必要なことと思います、中には「それは調理人として怠慢でありしっかり加減をしてだして当たり前塩など客席に用意してはいけない」という考え方をする料理人さんもいます。しかしその感覚自体が人によって違うわけですからそれがわからない以上できるだけ適度な加減をしてあとは塩を用意するしかないわけです。
現実には上級な店にいくほど塩は用意されていません、それならばお客さんの塩加減を知る努力があってしかるべきと思うのですが、そういう話は特に洋食の上級の店ではあまりされているのは見掛けません。和食の職人さんはお客さんの飲み物の飲み方を観察したり、外見や人となりから察して微妙に塩加減を変えるそうです。
洋食で聞くのは逆に、お客さんから塩辛いと言われたシェフが言うに事欠いて飲みものを飲む前提で作った料理だからワインを飲みつつ食べて丁度いいもの、飲み物を飲まずに食べれば塩辛くて当たり前とお客さんに言ったとか言わないとか。何と傲慢で愚かな自慢話でしょう。私が保証します。本当にあったことと仮定して、まずお客さんがワインを飲んでいないのは料理を出す前にわかるはずです、それでもワインを飲まないとちょうど良く味わえない料理を作る、お客さんから満足できないと指摘されてもワインを飲むのが当たり前と非を認めない、この方二重三重に間違っていると私は思うのですが、接客の方とコミュニケーションがとれていないのも露呈しています、高いお店ならばそれくらいは洗練されていてほしいものです。

私が他店で食事をしていて感じるのは、たまに残念なことにそれ以前のレベルで、適度に塩味をつける努力がまず感じられない。苦情の出ない味付けということがあります。人は自分がちょうどいいと感じる加減より少しでも強く塩が効いていると不快に感じるものです。逆に大分感覚より下回っていても何かパンチがないなくらいでたいていは苦情を言うことはしません。
有名店だったりするとなおさらですね。こういうものかと諦めてしまい、おいしいと感じられないことを逆に残念に思う、まさかそんな有名店でいい加減な調理がされているとは誰も思わないでしょうから。
その怠慢が上品なとか優しいと評価されていると作り手さんはそのまま自らも納得しないような味付けを続ける、童話の裸の王様を地でいっています。
塩加減はとても大切な要素だと思います。どんなに素晴らしい旨みがあっても塩がないと本当にはその良さはわかりません、旨みを引き出すのは塩と言って過言ではないでしょう。旨みの弱いミネストローネなどの塩加減をしているとそれがよくわかります。徐々に足していくともやもやと分かり難かったものが突如すっきりと隅々まで鮮明に理解することができるようになります、一人前で0,7gくらいでしょうか0.1g以下の量が明暗を分けます。
先日私は都内のある有名店で食事をしたのですが正直残念なものでした、本当に誰もが知る有名な店でそのシェフの堅実で良心的なイメージは私には知らずとも信頼の置けると言えるようなものがあったのですが、残念なことに、実際にはあまり細部まで検討されていない、店舗としてなのかもしれません、私には残念な内容でした。塩加減を明かに低めに設定していながら塩が客席に用意されていないことも残念なことですがとても不思議だったのはチーズの料理、前菜でしたがそれと魚介のこれも前菜で、これらに使われているソースが同じものでした。おそらく玉葱がベースでオイルとヴィネガーを乳化させたよくありそうなソースです。ある程度の値段をとる食を楽しむ雰囲気を持たせた店としてこれは残念なことです。どちらの料理にも色々なソースのバリエーションが可能と思います、同じテーブルに出る違う料理に同じソースを使うということはそのソースを過信しているのかお客さんを馬鹿にしていると思われても仕方ないと思います。その店舗はその方は名前を貸しただけなのかもしれません。事情のあることかもしれませんが、それを実際客として体験してある程度の判断のできる者として残念に思いました。
前から私が感じていたことは益々現実味を帯びて感じられるようになってきました。
洋食、専門料理の作り手さん達はお客さんを軽く見る傾向があると私は思います。
海外での修行時代、劣等感を感じていたのでしょうか、それがいつの間にかお客さんに向けらているのか?私には理解できません、残念なことです。


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