June 07, 2007

キリスト教の段階的な理解

最近は少しわかったつもりになって色々書いて度量の広い皆さんの耳を汚していますが、この歳になって未だに一つだけどうしても理解できないことがあります。それは宗教です、病気に感染するように傾倒し何かが入れ替わりいつしか奪われて行く。それがとても幸せなんでしょう、自らの持てる色々なことをつぎ込み使い果たす。実害がないのならいいのですが、しかし多くの場合問題は起きて罪のない周りの人に害を及ぼします。身近なことを言えば投票で、自らの意思でなくその宗教家もしくはその人の支持する対象へ投票する。これは実は深刻な問題です。
宗教は歴史的に、扱い方を誤ると大変な害のあることが明らかです。
右の頬を打たれたら左の頬をさしだしなさいというキリスト教でさえ戦争に利用される。十字軍、多くの戦争を指示したアメリカの大統領が宣誓する際手を添えるのが聖書です。
私達日本人の大方の理解を超えることがあります。
カトリックとプロテスタント、日本人の大抵の理解ではプロテスタントの方がやや穏やかで近代的、仏教で言えば浄土真宗のような生活に近く優しい趣のあるものかと思いきやこれは違います。最近プロテスタントの知識人と言えるような方とお話させていただいた機会があったのですが、私の穏やかなという認識は完全に間違っていたことがわかりました。その方のお話、全てのキリスト教徒にとってキリストの再臨は当然のこと、それは観念的なことでなく文字通りキリストがまた現れることなのだそうです。
イエスは右の頬をという言葉の通り無私の精神を貫いて死刑台に上りました。
これが何を意味するか?私達仏教徒の方がよほど理解できるのではないでしょうか?
黙示録の曲解?大変な力を持ったキリストが私達のために再臨して敵を打つ、そう思っているのでしょうか?
敵とは?
キリスト教の特徴、優れたことに段階的な理解ということがあると思います。
また続きます・・


Posted by lafreccia at 01:51:20 | from category: 私事 | DISALLOWED (TrackBack) TrackBacks
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